全ては自分の中にある
といいます。
自分が見聞きする物事は、自分の中にある要素が、「現実」に反映したもの。
自分の中のテーマに沿って、人生は展開されてゆきます。
つまり、ひどい目や、恥ずかしい想いをしたとしても、
それを体験する必然があった。
自らの中にその種があったということ。
これを「因」といいます。
痛い思いや、恥ずかしい思い、辛い思い、悲しい思い
人との争いや、事故や、うまくいかない事。
できるならば、御免被りたい所ですが、
全ては意味があって起こるとすれば、それは自分の内面世界を掘り下げ、
より体験の純度や密度を上げ、明彩に味わえるようになるための
大切な手がかりとなってきます。
そして、そんなつらい体験に向き合い、乗り越えることは、
負のエネルギーを昇華させ、本当の意味で自分の「器」を広げ、
「人としての奥行き」を作り出してくれるとても貴重な体験だと思うのです。
人のせいにせず、全てを糧とする
ここで最も大切なこと。
全ては自分の中にある という事は、
「誰々のせい」という事はありえない。という事です。
「アイツのせいで氣分が悪くなった」というのは
その氣分を害した原因の「アイツの言動」に反応してしまう部分が自分の中にあったから。
「バカ」と言われて怒るのは、自分をバカだと思い込んでいるということです。
(実際にバカではなく 自分で思い込んでいる と言うところがポイントです)
バカと言われても、自分をバカと評価していなければ、何も心が反応しません。
「おまえの母ちゃんデベソ」(古い)と言われても、美しいおヘソの母さんだったら
事実と違いますよね。怒る道理が無いわけです。
そんな「氣分の悪い人物」「苦手な人」幾人か居ると思います。
彼らを別の見方で見れば、
「解消すべき問題」を提示してくれているありがたいメッセンジャー
であると言えます。ありがたいですね*
生命には刺激が必要
ややこしい出来事にあったり、メンタルがブレがちな人を
避けたり、嫌いがちとおもいますが、
実際のところ、生きる事には刺激が必要です。
全ての事は常に変化しています。
諸行無常 という言葉があります。
全ての物事は常に移り変わっており、一定ではない。
変化とは、不安定と、安定の終わらない繰り返しです。
安定を至上の価値観とすることは、変化すなわち成長の無い人生となってしまいます。
不安定な人は、常に動いている人です。
次に会ったときには大きく成長しているかもしれません。
何が言いたいのかと言うと、色々な事があるけど、
そういうもんだから恥じたり氣に病む必要は無いよねということを云いたいのです。
だから不安定な人を見下したり、安定している人を見上げたりもしなくていいんです。
そして、生きるということは、死の抵抗の中を生の矢として飛び続けることです。
生きている限り、抵抗が無くなることは無いんです。
そして、飛行機が空氣の抵抗を利用して飛んでいる事実を考えれば、
抵抗が大きいほど、高く飛べる。
つまり
抵抗が大きい時は、高く飛ぶための上昇気流を掴んでいるとき。
そう腑に落ちると、ストレスすらもウェルカム
その先にまた一皮むけた自分が見えてくるわけですから。
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