「悩み事はありますか?」と聞かれて、「ありません」と

笑顔で言える事が出来る人がどれだけいるでしょう?

では、その「悩み」の本質とは何でしょうか?

 

自分とは違う誰かになりたい想い

 

私も昔、自分と他の誰かを比較して、劣等感や、不足感、羞恥心、

自己憐憫の思いに囚われていました。
自分はなんてくだらない人間なんだろう

誰々にはどうあがいても勝てない

誰々みたいになりたい
強くなりたい かっこ良くなりたい お金持ちになりたい。

どんな風に?

─賞賛されている、あの誰々みたいに─

その「理想とする誰か」は、

私の持つ劣等感はまるで無く、完璧な人間に見えるのです。

 

 一つの大きな氣付き

 

そんな思いを抱いた日々を長く過ごし

楽しくしている時も、いつもどこかで自分を好きになれず、いつも不足感を抱えて生きていました。

しかしある日、突如閃いたある考え方に私は救われました。
高校の科学の授業で習った原子の「周期表」。

それには118個の原素の記号がかいてあります。

その周期表が私に訴えかけてきたように想います。

人は、とても皆それぞれで、まるで、この多彩な原子たちのようだ。

 

人それぞれにはそれぞれの働きがあって、ある原子の働きを

他の原子がが肩代わりすることはできない。

できたとしても、それは全く違う別のものになってしまうだろう。

 

─例えば鉄原素(fe)が金(au)をこんな風。に羨ましがるでしょうか?

「ああ、おれはなんて鈍い色をしているんだろう。
金のやつが羨ましいよ…誰彼ちやほやされるし、値段は高いし、
なんて言っても希少価値が違うんだよなぁ!
おれなんて、水にぬれればすぐ錆びるし、なんというか頑固なところがあるし。
あんな柔軟なやつに生まれたかったよ…」

 

いやいや、鉄原素さん、あなたがいなければ、僕たちは野菜を切ったり、

お鍋で料理をしたりできないし、なにより貧血になって倒れてしまうよ。

きっと植物や、野菜もできない。

あなたがいなけりゃあ、この世界は成り立たないんだ。

存在してくれて、ありがとう。

 

─金原素が鉄原素さんに嫉妬するでしょうか?

 「鉄くんはいいよな。いつもたくさんの人間の生活の中にいてさ。
金持ちも、貧乏人でも、あいつと仲が悪いとこなんてない。
見ろよ、あの渋い色味。おまけに錆びたらまたいい味出しちゃってさ!
大体ぼくなんて、ピカピカしすぎてなんか下品だし、
なにより柔らかすぎるんだ…
鉄くんのように、あんなに固くは、ぼくには どう頑張ったって無理だった。
それに皆がぼくを見るとき、なんだか目がぎらぎらしてるんだ。
友達も少ないし。もう僕なんか死んでもだれも悲しまないだろうな…」

 

いえいえ金さん、あなたがいることで、様々な電子機器が働いているし、

あなたを虫歯に詰めたら、とても歯に馴染みの良い充填素材になるんだよ。

貨幣制度を作り出したのもあなたの存在だし、あなたのお陰で今の文明があるんだ!

何よりあなたは美しい。

金さん、存在してくれて、ありがとう。

 

──今この二人(素)がやっていたことは、つまり「比較」です。

人の苦悩というのは「比較」すること、されることから、始まってしまうようなのです。

かく言う私も、幼い頃に親から同級生の他の子や、

親戚の子と比較されてとても苦しんだ思い出があります。

何をやっても、自分を認めれくれず、他の誰かが引き合いに出される。

 

僕は耐え切れずに癇癪を起こした記憶があります。

幼い頃のあの感情の爆発のインパクトは強烈で、今でも覚えているほどです。

みなさんも、そんな苦い記憶はありませんか?

 

全ては生かし合い、交わり合うことで存在し得る

 

「隣の芝は青い」という諺があるように、

人とは、自分が持っていないものに対して、羨望を抱きやすいのです。

それが、冷静に客観的になって見れば

どんなにくだらないものだとしても、です。

一体それはいつからなのでしょう?

なぜ私達の思考をこんな風に縛り付けるようになってしまったのでしょうか?

おそらく、幼少期の教育や社会の風潮による「不足感」が原因だと考えています。

この原素周期表にある118の元素。(未発見元素を含めた172の表もある)

 

それぞれが、それぞれに自分の働きを持っています。

それらがただ、「存在する」それだけで、

 

自然とそれぞれの働きをしており

それによって、この世界が、今のこの形で存在しているのです。

そして、それぞれが他の元素と分かちがたくつながっており、

お互いに生かし合っています。

彼らのうち、どれかたった一つでも、

消えたり、働かなくなったりしたとすれば

おそらく、世界の構成は全く違うものになってしまうでしょう。

 

人もこの元素と同じように、それぞれの特性を持ち、この世界で働いています。

そして、元素よりも、遥かに多くの働きが出来

それぞれに交流し、その働きは絶えず変化、成長します。

さらに、今までの人生で経験したことや、抱いている想いによっても、

その可能性は無限に広がってゆきます。

例え似たような人がいたとしても、「全く同じ」ことなどはありえないのです。

 

──だからこそ、自分の存在を根っこから「肯定する」

 

 

ですから、あなたがこれまで、自分のことをいくら疑って、

憎んで、蔑んで、嫌ってきたことがあったとしても、

── もう愛してしまってもいいのです ──

私がいることで、喜ぶ人がいる。

私がいることで、成り立つことがある。

私がいることで、成長する人がいて、
私がいることで、汚れることがあり

清浄の働きをするものが生き生きとし始める。

私がいることで、傷つく人がいて

傷つくことでのみ可能な成長がある。

私が私を為すことで 生まれる衝突、悲しみ、喜び、怒り、愛。 

それはまさに、わたしが存在する意味そのものであり、

わたしという人生の、大いなる流れの一つである。

 

そのように大きく許すことで ひとつひとつの物事に、

心とらわれて苦しくなることはなくなってゆきます
私がいることで、世界は成り立っている。

でもそれは「他の人も同じである」という事を忘れないでくださいね。

好きにならなくていい ただ事実を認めること

 

嫌いなあの人。

苦手なあの人。

のろまに見えるあの人。

まぬけに思えるあの人。

口やかましく思えるあの人。

きついあの人。

それぞれに、それぞれの働きを為して、精一杯に生きている存在たち。

でも、苦手な人を愛する必要はありません。

無理に受け入れる必要もありません。

 

憎んでも良い、嫌っても良いのです。

ただ、自らが唯一無二の存在であることを肯定し、受け入れ

 

ただ、あの人が唯一無二の存在であることを肯定してください。

自分を真の意味で「尊重する」ためには、

 

他人も真の意味で尊重しなくてはいけません。

そして、そんな存在たちと、自分が関わることで、辛いことがあったとしても、

必ず何らかの恩恵を受け取っているのです。

それが、「学び」であり、「益」であり、「価値」であり

あなたとその方との組み合わせの形でしか生まれ得ない、

純粋な「化学反応」が生み出したものです。

憎んでもいい、怒ってもいい、

 

とっくみあいの喧嘩をしても、傷つけても、

傷つけられてもいいのです。

どんなにみっともない、隠したいと思ったとしても、

そこから生まれて来るものは、そこからしか生まれ得ないのですから。

「そんなことみっともない」「大人げない」「カッコ悪い」「恥ずかしい」なんて

「他の誰かの目」を自分のアタマの中で設定して

自分を押さえつけることはうもやめにしましょう。 

 

ただ、自分がそう感じる、心の底から湧いてくる、

その感情や、思いを、考えを、否定せず、

それが自分の中に確かに「在る」ことを認めて、

感じて その上で行動をすること。

それが自分自身を尊重することであり、

他人を尊重することだと思います。

 

サトリは”差取り”

 

お釈迦様がこの世に生まれてきた時、

七歩てくてくと歩き、天と地を指差したポーズを取りました。

 

お釈迦様

有名な「天上天下唯我独尊」といわれるポーズです

『自分という存在は他の誰にも変わることのできない存在として生まれており、この命のまま尊い。』

 

これはすべてのものに上下無く、差がなく、タイラである というふうに理解できます。

これを腑に落とすことを「差をとる」
つまり『サトリ』といいます。

「悟り」というのは、なにか神聖なイメージとか、大仰なものでもなんでもなく、

誰でも、生きながらにして人生の経験から学び、省みて、悟ることができるのです。

 

サトリについては、いろいろと言われますが

この「差取り」が腑に落ちた時

悟っている自分と、悟っていない方とを比較して

優越感にひたり、人を見下すことはサトリでは無いということがすぐ分かるでしょう。

「愚かに見える行い」「不毛に見える経験」を繰り返す方がいたとしても、

その中には、その方の働きの必然性があり、その方の魂の学びがあるのです。

「すべてを、思い込みや先入観、色眼鏡なく、タイラに見ることができること」

これがサトリ。

 

それが腑に落ちた時、「特別な人」「偉い人」はいなくなり、

「優越感」も「劣等感」も薄くなり、完全に自分に溶け込んだ時、無くなってしまいます。

 

もちろん僕たちは、お釈迦様の時代と違い、資本主義がベースいわゆる俗社会に暮らしていますので、

完全なゼロの視点でモノを見ることができる状態に達することは難しいかもしれません。

しかし、すべてのことには時代性があり、それぞれの人の働きの違いがあります。

 

難しく考えてもよし

難しく考えなくてもよし

探求してもよし

探求しなくともよし

 

そして、「悟らずとも よし」

 

すべての存在が、その存在のままに、

それぞれの命を生ききることができればなんでもいいのです。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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《心と体の整体師、身心研究家》誰もが自由に、ありのままに、身と心(しんとしん)を開放して生きてゆくヴィジョンを描いています。私の呼吸が深くなるとき、世界が深く響く。体を解放する=心を開放すること。誰もが❝暖かさに生きたい❞それが当たり前。新しい豊かさの形「血の通った経済」を想い描いて、人を繋ぐ旅をする、現在準備中。旅の応援、よろしくお願いします*