人はそれぞれに自分の世界をもっています。
【 一人に一つの時空、一つの宇宙がある 】と
僕は感じています。
──《一人一宇宙一時空》論RSEL寺小屋
だからこのBlogやSNSで、自分の思うことや考えを発信することは、
ある意味おこがましい事なのかもしれないなあと思ってしまう。
自らの宇宙、時空、世界観
1.それを自分の意思で構築してきたのか
2.自我でもって構築してきたのか
3.逃れがたい他からの力で、構築させられて来たのか。
…この三つの文章(全部真なのかもしれません)を読んだ所で、
それぞれの脳裏に映る情景や印象はやはり人それぞれ。
この捉え方や、つれてくる感情も人それぞれ。
誰もが楽しい、幸せな経験、辛い、苦しい経験をして来ています。
──と言うのは僕の固定観念で、そんな事してきていない方もいるかもしれません。
誰か一人の人がおり
それを色々な人が見る
色々な想いを抱く。それぞれが勝手に。
自動的に考えが湧いてくる
感情が湧いてくる
印象を受け取る
自らと比較する人
傷つく人
喜ぶ人 笑う人
怒る人 悲しむ人 否定する人
皆自分の時空で、自分の眼鏡で、心と体と魂でそれを体験するのだと思うのです。
皆それぞれに、見る人やモノコトに自らを映し出して感じているのだと思うのです。
「自分」は「自然(全体性)から分かたれたもの」という意味です。
だから自分は私一人ではなくて、遠い遠い先祖、
単細胞生物の発生からの記憶含めて全部自分だと。
遡れば、宇宙まるごと一切と繋がっているんだと。
最近の僕の感じた出来事
とても推進力のある方を見ました。
自らの使命を強くすすめてゆく その力強さ。
もちろんその中にある硬さも見ました。
力強さゆえの硬さ。
硬さは広がりと交わらない。
これは僕の考えというより、自然の法則と言えるかもしれません。
自分が進む方向以外見なくなる。見えなくなる。
それも自らが選んだ事で、とても素晴らしい、愛おしいこと。
そして、そうだからこそ到達し得る処があると思います。
考えを発信することがおこがましいと思ってしまうと書きましたが
人は何かを発さずにはいられない存在なのだと思います。
発して、交わって、変化して、創り上げて。
人と一切関わらないような方がいたとしても、生活の上でそれは必ずやっている。
生き物と、食べ物と、水と、自然と。
そこの所に生きる喜びがあるのではないか。
では、思うままに、存分にそれをやってしまえば良い。
皆それぞれに別の時空を持っているし、
他人を見ているようで自分を見ているわけなのだから、
他人であり家族でもあるような感じであるのだから
どんな事も、あまり氣にして自分の表現を制限してしまわなくてもいい。
僕は「それぞれの世界を持つ」人たちに、
その事実を知らしめる事が出来たら、それは素敵な事だと思う。
事実を知らずに不自由を感じている人が、僕のBlogや文章を通して僕の世界観に触れることで、
少しでも自由に成ったり、その世界に彩りを添えることができれば
それは素晴らしい、生きてきた甲斐があったなあと思う。
施術やセッションでのそんな瞬間、毎回それを感じます。
自分の持つ世界に触れて、相手の中に起こった反応を見ることに
喜びを感じる
喜びってそういう事なのかもしれない。
そして僕自信も、今よりもっと自由になりたいし、自在になりたい。
経験できることを全て経験したいし、知れることは全て知りたい。
色々な世界を観たい。
生きているだけで人の為になるし、為っているし、為ってきた。
わざわざ言わなくとも、命というのは皆そうなのでは無いかと思っているんです。
だってこの宇宙に存在してるんですから。
思っていることを出したくて、つれつれと書きました。石垣島より。
石垣島の真ん中あたり、「開南」のセッションルームPlanetさんに滞在中です。
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