なんで人を助けると嬉しいんだろう?
人によると思いますが、人助けをすると、なんだか嬉しくなりませんか。
でも、なぜ嬉しいのか?考えたことがありますか?
この記事では、なぜ人を助けると、嬉しくなるの?
を、考えてゆきます。
結論から言ってしまうと
人は人を助けることに喜びを感じるように出来ています。
なぜなら、人を助けることで、自分の存在が力を増すから です。
その理由を説明してゆきますね。
人を助ける、ということは、相手に対して何らかの変化が生まれます。つまりレスポンスがあるということですね。
もちろん、喜びを感じるのは、手助けが上手く行って喜んでもらえた時です。怒らせてしまっては、逆に凹んでしまいます。
手助けが上手く行って、「喜んでくれた」という他に、具体的に相手の状態に何らかの変化が生まれます。
この手応えが喜びの素です。
自分という存在が、相手という別の存在に対して、ポジティブな影響を起こし、ある意味現実を変えた。という事実に、リアルに「自分は確かに存在しているんだ」という感触を得ることができるんですね。
これはとても大切なことで、自分の存在を、この世界で確かに出来るのが、人助け。つまり、影響を与える、という行為なのです。
人に頼ることは、遠慮しがちですが、頼ることで相手にとっても良い影響があるということですね。ご老人などは、若者に頼られると嬉しい方が多いと思います。大切なのは、「氣持ちよく頼る事」です。
「依存」の精神構造
自然界には、宿主に寄生し、生かし合う関係があります。和多志(わたし)たちの細胞にある、100億の微生物や酵素、細菌類もその一つです。
わたし達は、独りだと想っている時ですら、独りで生きてはいません。
人は頼られることで喜び、自分の存在を実感し、エネルギーを得ています。でも度を越して「依存状態」になると、エネルギーを奪う事になります。すると、助け合い・生かし合いの関係が歪んでゆくのです。
《共依存》とは、依存のしあい。
片方が強く依存すると、依存される側は「依存される事に依存」してしまうという状態です。
依存される事で、「わたしは必要とされているのだ」と、そこに自分のアイデンティティーを見出してしまうという精神状態です。
自然界では、「寄生植物」が存在します。太陽の光を得るために樹に寄生し、最後にはその樹を絞め殺してしまうのです。
寄性された樹の氣持ちはわかりませんが、この人と樹の2つのパターンは、どちらかが倒れると、共倒れ という仕組みが同じです。
では、どのような関係性が心地良いでしょう。
わたし達、人としては、
互いに自立していて、執着はないけれど、会えたらやっぱり嬉しい
という関係が出来ればいいですね。笑顔で居たいものです。
という関係が出来ればいいですね。笑顔で居たいものです。
全ては「対」で成り立っている。
わたし達は独りでは存在できません。
男/女という対の存在がいることで、命が生まれます。
あなたが居ることで、わたしを認識できます。
苦があるから、楽があります。
無があって、有があります。
全ては「対」で存在が成っています。
「対であること」を忘れて「完璧な私」「抜きん出た私」を目指すと、寂しい人になってしまうのはそのためだと思います。それは「孤高」と言われます。「ぼくは孤独になりたい」と宣言しているのと同じことだから、孤独がその身を覆うようになるのでしょう。
「あやかりあい」「いかしあい」へ。
わたし達は互いを認識(観測)することで、互いに存在をさせあっています。これは量子力学で、「観測者効果」といわれます。
観測者効果 の考え方から言うと、誰からも観られていない間は、実体として存在できません。
つまり、わたし達の「孤独」の正体は、自分を観てくれる人(観測者)が居なくなることで「自分は消えてしまうのではないか?」という恐怖です。
存在の消滅への恐怖
これは全ての生き物の本能的な感情ではないかと思います。
つまり、《死への恐怖》は、存在が消えてしまうことへの恐怖なのです。
全ての命は生かし合い、活かし合い、それぞれの存在に「あやかり合って」生きています。それは❝和多志❞達人間も同じこと。
助けて貰っている有り難さをよく感じ感謝し、「自分も誰かを助けたい」という氣持ちを育むことが、心地良い人間関係と、平和で安心した心を広げ、暖かな世界を作ってゆきます。
*この記事は2018/2/16 に書かれた記事をリライトしました。
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