「味わいという価値観」の元に僕らの心は自由になる。

味わいという価値観の元に僕らは自由になる

良い、悪い、ある、無い、白、黒。
AかBか。イケてるか、イケてないか。
1か、100か。勝ち組か、負け組か。
オール・オア・ナッシング。

この二択の精神を二元論的思考といいます。

二元論は紙の上、二次元の思考

自分について、「幸福か不幸か」「わたしって、アリなのナシなの?」など二択を当てはめる時や、だれかに「やるのか、やらぬのか」など二択を迫られる時、とても息苦しい感じがしませんか。

”息苦しさ”は、文字通り、窮屈さ、狭さを感じた時に現れます。

自分が本当に求めているものを表現できない、言えない、我慢する、偽るような時に、胸がきゅうっと縮まり、喉、気道がせばまるのです。

息苦しさ・全ては味わい

AかBかの二択、二元論は謂わば二次元的思考なのです。

二次元と言えば、紙の上の世界です。そこには前後左右があるのみで、空間の奥行きがありません。とても平坦で、うすっぺらい思考の仕方と言えます。
身体は思考に反応します。私たちの身体はその空間のなさ、広がりのなさ、可能性の無さに、希望の無さを感じ、窮屈さという体感を表現しているのではないでしょうか。

この「二元論的な風潮」は大分柔らいで来ているのでは無いかと感じておりますが、やはり思考の癖というのはなかなか抜けないものです。

それもそのはずで、頭の中だけでやりくりしていたものを、また頭デッカチの情報だけで書き換えをしようとしても、なかなか難しいものです。やはり、体感=身体の要素が必要です。

二択は窮屈な二次元世界

より自由な、”味わい”という価値観を採用する

この狭い思考の癖、骨の髄までこびり付いた概念を覆す考え方として、「味わい」があります。

日本語では「辛い体験」「苦い思い出」「甘い経験」「しょっぱい奴」「甘酸っぱい思い」など、全てを味わいに例えている慣用句が存在しています。
日本人は「良い悪い」での判断をしてこなかったのではないでしょうか。

経験に良い悪いのレッテルをつけるのも自由ですが、「過去の汚点」などとトラウマ固定してしまうよりは、「苦い思いだった」と認識したなら、前者よりも、心がそこに囚われてしまうような事も無さそうな感じがします。

味わいという価値観は身体性を含んだ、立体的な思考

この価値観の優れているところは、身体の感覚がベースになっているというところです。

「味わい」すなわち味覚。感覚の刺激を受け、感情が現れて来ます。味には好き嫌いがあります。それは各々、固有の感覚です。

この「味わい」は、二元論思考より遥かに許容の幅、自由度が高いんです。そして肯定的です。身体の感覚には良い、悪いの二元論が適用できません。動的であり、絶えず変化しています。

私たちは色々な味わいの食べ物を食べて成長し、今まで生きて来ました。そこにには無限の食材の組み合わせと調理の彩りがあり、苦味や酸っぱさ、かなり強い辛さでさえも、楽しむことができます。

時には失敗して焦がしてしまった料理を、苦笑いをしながら味わったこともあるでしょう。
人々の織りなす食卓のドラマも相まって、そこにある価値は無限であり、「野菜か、肉か」「ウマイか、マズイか」の二択では無かったはずです。

様々な個性と味わいを持つ

あらゆる経験には、それぞれ全く違う味わいがあり、そこに良い悪いはなく、すべてに重要な学びがあるはずです。

例えば恵まれた家庭環境で、甘い思いばかりをしてきた人が居たなら、辛い境遇に育ち、苦さ、しょっぱさを味わってきた人とは全く「違う味わいを持つ人」となります。

良い悪いより、”好き嫌い”の方が心地良い

では、この二人のどちらが「良い」でしょうか?
「味わいの価値観」を知った今となっては、この質問がすでに薄っぺらく感じてしまいます。人の個性もまた、味わいなのです。

「好き嫌い」は二元的かと思われますが、これは体で判断する感覚であり、好きと嫌いの真ん中もあり、”やや嫌い寄りの好き” ”まあまあ普通”など、言語化すると無限のバリエーションがあります。

体に尋ねる価値観は立体的で深く、奥行きがあり、曖昧です。白黒は付きません。そのため息苦しさが無いのかもしれません。

物事、人は、様々な味わいがあるけれど、その好みもそれぞれ。色々な味わいを経験することは、自分の好き、嫌いを知る。つまり自分がどんな人なのか?を明確にしてゆく大切な事であると思います。

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ABOUTこの記事をかいた人

オンライン専門のボディーワーカー/身体研究家。20代の頃、自己肯定感の低さから鬱病に。さらにアダルトチルドレンも発覚。自分の出来の悪さを呪い苦しんだが、才能は身体感覚から開けるのではないか?と氣付き、探求し、うつ病とACを自ら克服。様々な場面で独自の感性とクリエィティビティを発揮できるようになる。整体師時代に、独自のセラピーメソッドを確立しそれを身体開発/自己啓発メソッドに昇華。「あたらしい心とからだの使い方」にて伝えている。代表コンテンツは、唯一無二の「蝶形骨の使い方メソッド」著書:ありがとうございますはZEROのことば(Galaxy Books)