この記事は2017年6月19日に書かれたものです。
*2017年12月22日 追記修正、画像の変更を行いました。
「悩み事はありますか?」と聞かれて、「ありません」と
笑顔で言える事が出来る人がどれだけいるでしょう?
では、その「悩み」の本質とは何でしょうか?
自分とは違う誰かになりたい想い
私も昔、自分と他の誰かを比較して、劣等感や、不足感、羞恥心、
自己憐憫の思いに囚われていました。
自分はなんてくだらない人間なんだろう。
誰々にはどうあがいても勝てない。
強くなりたい かっこ良くなりたい お金持ちになりたい。
─賞賛されている、あの誰々みたいに─
その「理想とする誰か」は、
私の持つ劣等感はまるで無く、完璧な人間に見えるのです。
一つの大きな氣付き
そんな思いを抱いた日々を長く過ごし
いつもどこかで自分を好きになれず、不足感を抱えて生きていました。
しかしある日、突如閃いたある考え方に私は救われました。
高校の科学の授業で習った原子の「周期表」。
それには118個の原素の記号があります。
その周期表が私に訴えかけてきたように思えるのです。
人という存在は、とても皆それぞれで、多彩だ。まるで、科学の授業で習った元素たちのよう。
人それぞれにはそれぞれの働きがあって、ある元素の働きを
他の元素が同じように肩代わりすることはできない。
できたとしても、それは全く違う別のものになってしまう。
─例えば鉄原素(fe)が金(au)をこんな風。に羨ましがるでしょうか?
「ああ、おれはなんて鈍い色をしているんだろう。
金のやつが羨ましいよ…誰彼ちやほやされるし、価値が高いし、
なんて言っても希少性が違うんだよなぁ!
おれなんて、水にぬれればすぐ錆びるし、なんというか頑固なところがあるし。
あんな柔軟なやつに生まれたかったよ…」
いやいや、鉄原素さん、あなたがいなければ、僕たちは畑を耕して野菜を収穫したり、
料理をしたりできないし、なにより貧血になって倒れてしまうよ。
土の中に鉄が無ければ、きっと植物や、野菜もできない。
あなたがいなけりゃ、この世界は成り立たないんだ。
存在してくれて、ありがとう。
─金原素が鉄原素さんに嫉妬するでしょうか?
「鉄くんはいいよな。いつもたくさんの人間の生活の中にいてさ。
金持ちも、貧乏人でも、あいつと仲が悪いとこなんてない。
見ろよ、あの渋い色味。おまけに錆びたらまたいい味出しちゃってさ!
大体ぼくなんて、ピカピカしすぎてなんか下品だし、
なにより柔らかすぎるんだ…
鉄くんのように、あんなに固くは、ぼくには どう頑張ったって無理だった。
それに皆がぼくを見るとき、なんだか目がぎらぎらしてるんだ。
友達も少ないし。もう僕なんか死んでもだれも悲しまないだろうな…」
いえいえ金さん、あなたがいることで、様々な電子機器が働いているし、
あなたを虫歯に詰めたら、とても歯に馴染みの良い充填素材になるんだよ。
貨幣制度を作り出したのもあなたの存在だし、あなたのお陰で今の文明があるんだ!
何よりあなたは美しい。
金さん、存在してくれて、ありがとう。
──今この二人(元素)がやっていたことは、「比較」です。
人の悩み苦しみは「比較」すること、されることから、始まってしまうようなのです。
かく言う私も、幼い頃に親から同級生の他の子や、
親戚の子や友人と比較されてとても苦しんだ思い出があります。
何をやっても、自分を認めれくれず、他の誰かが引き合いに出される。
僕は耐え切れずに癇癪を起こした記憶があります。
幼い頃のあの感情の爆発のインパクトは強烈で、今でも覚えているほどです。
何故、比べ、苦しむようになったのか
「隣の芝は青い」という諺があるように、
自分が持っていないものを持っている他人に対して、羨望を抱いてしまう。
それが、冷静に見ればくだらないものだったとしても、です。
いつからそうなってしまったのでしょう?
何が私達の思考をこんな風に縛り付けるようになってしまったのでしょうか?
それは、幼少期の愛情不足、人と競争し勝つことを良しとする教育、
より数字が多い、質が高い結果を出し、遅いより早いほうが優れている。
そんな競争原理の社会でサバイブすることが求められる世の中。
そしてそれがさらに愛情不足に拍車をかけてゆく…
幼い我が子にすら、結果を求めてしまう…
存在するだけで、完全、完璧なのが命の本来。
少なくとも、子どもの間は、
この世界への安心感を与えてあげなくてはいけない。
それが安定した、幸福感のある人格を育成する唯一のタイミングです。
しかし多くの場合、それは許されませんでした。
そんな世界から知らず知らず私たちが身に纏ってきた「不足感」
そんな負のループの中に生まれたせいで
「愛が足りなかった」それが大きな原因なのでしょう。
私たちは生かし合うことで、存在している
この原素周期表にある118の元素。(未発見元素を含めた172の表もある)
それぞれが、それぞれに自分の働きを持っています。
それらがただ、「存在する」それだけで、
自然とそれぞれの働きをしており
それによって、この世界が、今のこの形で存在しているのです。
そして、それぞれが他の元素と分かちがたくつながっており、
お互いに生かし合っています。
元素達のうち、どれかたった一つでも、
消滅えたり、働かなくなったりしたとすれば
おそらく、世界の構成は全く違うものになってしまうでしょう。
物質組成のバランスが変わり、世界が崩壊してしまう可能性もあります。
人もこの元素と同じように、それぞれの特性を持ち、この世界で働いています。
そして、元素と違う点は、一つ一つの元素よりも、遥かに多彩な働きが出来ること。
それぞれに交流し、居る場所や時間、人に応じて、その働きは絶えず変化、成長します。
さらに、今までの人生で経験したことや、抱いている想いによっても、
その可能性は無限に広がってゆきます。
例え似たような人がいたとしても、
「全く同じ」ことなどはありえないのです。
──だからこそ、❝自分という存在を肯定する❞
ですから、あなたがこれまで、自分のことをいくら疑って、
憎んで、蔑んで、嫌ってきたことがあったとしても、
もう認めて、許して、愛してしまってもいいのです。
わたしがいることで、喜ぶ人がいる。
わたしがいることで、成り立つことがある。
わたしがいることで、喜ぶ人がいて、
わたしがいることで、安らぐ人がいる。
わたしがいることで、微笑む人がいて、救われる人がいる。
わたしがいることで、上手く流れない事があるように感じても、
また別の所では、新たな強い芽が生まれているかもしれない。
わたしがいることで傷つく人がいても、それを乗り越えて成長する人がいる。
わたしが、わたしとして存在し、わたしという働きを為すことで 生まれる衝突、悲しみ、怒り、喜び、微笑み、愛しさ、味わい。
それがまさに、わたしが存在する意味そのもの。わたしそのもの。
わたしが生きて来た人生全てが、わたしという存在の必然であり、大いなる流れ。それが「生きる」 という「志」。大きな大きないのちの大河の流れ。
自分の存在を否定するという辛い辛い経験も、
いつかは誰か、同じ想いに苦しむ人を掬い上げるチカラに変わる。
それは苦しみから這い上がった人にしか成せないチカラ。
人生には無駄な事など一カケラもない。
こんな風に大きな視点から許すことで ひとつひとつの物事に、
心とらわれて苦しくなることはなくなってゆきます。
原子が一つ消えたなら世界は崩壊するかもしれないのなら、
私がいることで、世界は成り立っている。それは否定しようのない事実。
そして私の構成する世界は、大きな宇宙のかけがえの無い一部である。
そして、それは「他の存在も同じである」という事も忘れずに。
好きにならなくていい ただ事実を認めること
嫌いなあの人。
苦手なあの人。
のろまに見えるあの人。
まぬけに思えるあの人。
口やかましく思えるあの人。
きついあの人。
それぞれに、それぞれの働きを為して、精一杯に生きている存在たち。
だれも誰かを傷つけたり、不幸にしたりしたいわけなどありません。
でも、苦手な人を愛する必要はありません。
無理に受け入れる必要もありません。
憎んでも良い、嫌っても良いんです。
ただ、自らが唯一無二の存在であることを肯定し、受け入れ
ただ、あの人が唯一無二の存在であることを知ってください。
自分を真の意味で「尊重する」ためには、
他人も真の意味で尊重しなくてはいけないのですから。
全て“お互い様”
そして、そんな存在たちと、自分が関わることで、辛いことがあったとしても、
必ず何らかの恩恵を受け取っています。
それが、「学び」であり、「価値」であり
自分とその方という組み合わせでしか生まれ得なかった、
純粋な「化学反応」が生み出したものです。
憎んでもいい、怒ってもいい、
とっくみあいの喧嘩をしても、傷つけても、
傷つけられてもいいのです。
「そんなことみっともない」「大人げない」「カッコ悪い」「恥ずかしい」なんて
「他の誰かの目」を自分のアタマの中で想定して
自分のホントウを押さえつけることはやめにしましょう。
ただ、自分がそう感じる、心の底から湧いてくる、
その感情や、思いを、考えを、否定せず、
それが自分の中に確かに「在る」ことを認めて、
感じて その上で行動をすること。
それが自分自身を尊重することであり、
他人を尊重することだと思います。
サトリは”差取り”フラットになること。
このサイトのタイトルである”サトリ”について触れたいと思います。
お釈迦様がこの世に生まれてきた時、
七歩てくてくと歩き、
天と地を指差したそうな。
「天上天下唯我独尊」というポーズです
『自分という存在は他の誰にも変わることのできない存在として生まれており、この命のまま尊い。』
という意味だそうです。
これはすべての人、物、事、に上下無く、良悪なく、差がなく。
全てに価値があり、無価値である。
全てに意味があり、無意味である。
だからこそ等しく、そして尊い。
「差」という概念が存在しない意識。
“差“が取れている状態。それを『サトリ』といいます。
”差取りが即ち、悟り”です。
「悟り」というと、大仰宗教的なイメージがありますが
誰でも、生きながら人生の経験から学び、魂を磨く事をしています。
そんなことは全く思ったことも、考えたこともない!と思うかもしれませんが、
誰か人の役に立ちたいと思い、役に立てなかったり、上手く出来なかった時に落ち込みますよね。
かと言って、自分一人の事だけを考えている時の虚しさって無いと思うでしょう。
心が燃え上がる時は何か人と作り上げようということだったり
何か世の中を変えてやろうという想いであったり。
なにより嬉しかった時、自分に誇りを感じた時は、
人を笑顔にさせたり、喜んで貰えた時では無かったでしょうか?
全ての人が共通して切望することは、「成長すること」です。
だから学びや教育に沢山のお金が流通します。
魂が磨かれることに、人は言い知れぬ喜びを感じるように出来ています。
人生とは魂の学びの場であるんです。
そしてそんな行いを繰り返す中で、やがて思い込みに囚われないようになり
執着が消え、フラットになった時、まさに悟れているんです。
「思い込みや先入観、色眼鏡をかけずに、平らに見ることができること」
それが腑に落ちた時、「特別な人」「偉い人」はいなくなり、
「優越感」も「劣等感」も薄くなり、やがて無くなってしまいます。
「意味」も「無意味」も無くなり、だからこそ、自由に今この瞬間を楽しめる意識。
心が自由になること それが サトリです。
スタイリッシュな“現代のブッダ”を志そう
もちろん僕たちは、お釈迦様の時代と違い、
高度に情報化された、資本主義がベースの俗世間に暮らしています。
だから昔の釈迦やキリストのような人はあまり見ないかもしれません。
すべてのことには時代性があります。
ハイテクで多種多様な現代に生きながら、
心は囚われる事がない。
自分に関わってくれる存在を 認め 愛し
それぞれの存在の愉快さを愉しみ、愛であう。
そんな調和的で心地良いマインドで、
変わり続ける己と、世界を味わい愉しむ。
自由に、限りなく自由に。
それが「今の時代のサトリ」だと思うのです。
LET’S BE URBAN BUDDHA!
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